私は、第一志望だった進学校の高校が不合格となり、滑り止めで受けた第二志望の高校へ入学した。
まあ、どれだけ勉強しなかったかは、自分が一番よく把握していたので、受験に落ちたこと自体はすんなりと受け入れることができた。
しかし、入学した女子高の雰囲氣にまったく馴染めなかった私は、1年生のとき、学校を頻繁に休むようになった。
2年生では、悩んだ末に開き直り、学校へは出席するものの、勉強をいっさい放棄した劣等生に成り下がった。
そんなときに出会ったのが染矢先生だ。
彼は、同学年の違うクラスの担任で、「学校の名物」のような教師だった。
学校一厳しくて、時には生徒に体罰を加え、決して笑わない名物教師――。
私はその名物教師に、高2の終わり、夜の繁華街で補導された。
夜回り先生ではないが、1人で夜の街を見回っていた彼に、友人と2人で鉢合わせたのだ。
友人は学年で1番背が高い子で、彼女が氣付かれたことが、その引き金となった。
私たちは別々に事情を聴かれ、私は彼に、これから帰るところだったと(嘘を)告げた。
それが、はじめて彼と会話を交わした日。
そしてその会話の内容は、事情聴取だった(苦笑)。
その間、私たちは一度も目を離さず、絶え間なく見つめ合っていた。
はじめて見る彼の私服がとてもセンスよくて、私は彼を、わずかに男性として意識していた――。
3年生になって、私は彼に化学を習うことになった。
補導歴のある、学年で1~2位を争う劣等生と、学校で1番厳しい名物教師。
彼の授業で、私は、空欄だらけのテスト用紙を堂々と提出し、赤点をギリギリで回避する落ちこぼれぶりを、テストの度に発揮した。
当然、
「私は染矢先生に嫌われている」
そう信じて疑わなかった。
卒業するまで、いや、卒業してからもずっと・・・。
2013年、約半年間に渡って降りてきた記憶は、極めてリアルで、完全に失念していたことも、すべて鮮烈に蘇った。
高校3年生の新学期――。
染矢先生の2回目の授業で、一番前の席に座っていた私は、彼が話をしている最中よそ見をしていて、彼に大声で怒鳴られた。
1年生のとき、学校を頻繁に休み、その上補導歴があった私は、彼には「教師に対して反抗的な問題児」と映っていたのだ。
そうして、それが決定打となり、戦慄したクラスメイト全員が、以降、誰も彼に近づこうとしなくなった。
それどころか、休み時間に化学室に移動した途端、全員即座に着席し、はじまりのチャイムが鳴るまで息を殺して待つ。これが化学の授業のルーティンとなった――。
4月のある日――。
職員室の前で、世界史の谷山先生(仮名)が私を呼び止め、提出物を出したか尋ねてきた。
劣等生だった私は、もちろん提出しておらず、すっとぼけて話をそらし、そのまま免れようとしたした途端、谷山先生が、持っていた教科書で私の頭をおもいっきり叩いた(当時は体罰が日常茶飯事だったのです)。
私は、「いったーーい!!!」とわめいた直後、「あ゛ーーーん!!」と子供のような泣きまねをして谷山先生を困惑させ、側にいた友達を大爆笑させた。
染矢先生は、その一部始終を見ていた・・・。
それを、降りてきた記憶が教えてくれた――。
つづく