染矢先生への伝言 NO.3 ~ツインレイ体験記㊶~

白鳥 ツインレイ
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3学期がはじまって、1月も終わりに近づく頃。

休み時間に職員室で用事を済ませた私は、冷たい風が頬をさす中、教室に戻ろうと、1人渡り廊下を歩いていた。

すると視線の先に、授業を済ませた染矢先生が、校舎から出てくる姿が目に映った。

私たちは、遠くに相手の存在をキャッチしたときから、お互い一切視線をそらさず、目前に近づいたとき、同時に歩みを止めた。

染矢先生が口火を切り、相も変わらず険相な顔で、「もうすぐ卒業だな。どうだ?」と尋ねてきた。

叱られる恐怖心を抱いているにもかかわらず、なぜか呼吸が深くなった私は、「ちょっとだけ寂しいです」と正直に答えた。

その瞬間彼は呆けた顔になり、「そうか、、、」とだけ漏らすと、再び険相な顔で「しっかりやれよ」と、たしなめように言った。

その間も私たちは、一度も視線をそらさず、絶えず見つめ合っていた。

これが、私たちが交わした、数少ない会話の最後だ――。


3学期は、2月から卒業式までの間「自宅学習期間」となり、授業は1月のみだった。

雪が被さったベリー
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その、1月の染矢先生の最初の授業で、彼は、「残りの授業をすべて自主学習にする」と告げた。

私は、平静を装いつつ、内心喜びで胸が弾んだ。

当時の私は、それがどういう意味を含んでいるかなど、当然知る由もなかった。

それは、2学期、谷山先生に自主学習にしてほしいと私たちからお願いし、承諾してくれたことに歓喜した、あの「自主学習」だ。

染矢先生は、私たちが自主学習を望んでいることを承知していたのだ。

承知した上で、「あえて」そう選択してくれたのだ。

あれは、彼の優しさだったのだ――。


彼の授業の最終日。

終わりのチャイムが鳴る直前、彼は広げた両手を教卓につき、うつむき加減で最後の挨拶を述べた。

「厳しいことも言いましたが、もし理解していただけるとしたらとても嬉しく思います。すばらしい女性になってください。1年間、ありがとうございました」――。

確かに彼は、厳しいことを言った。

しかし。

二十数年の時を経て、私は、彼の優しさを理解することができた。

彼の最後の挨拶通り、彼を理解することができたのだ――。


2月、自宅学習期間に入ってすぐのこと。

夜、染矢先生から私の自宅に電話が入った――。


しかし、私はその日、旅行中だった。

午前中、大阪の親戚宅に遊びに行っている友達から電話があり、話が盛り上がって、母に大阪への旅行を懇願したら、あっさりと快諾してくれたのだ。

私は、彼から電話があったそのとき、急遽向かった大阪でお上りさん状態だった・・・。

そうして、携帯電話など普及していなかった当時、私は、大阪から戻ってきてはじめて、母から電話のことを知らされた。

それを聞いた直後、私は狼狽し、用件を尋ねると、「提出物の件でクラス全員に電話をしている」とのことだった。

「自宅学習期間」はその名の通り、「自宅で学習する期間」であって、旅行は当然ご法度だ。

私は、校則を犯したのがバレたと、一瞬にして震え上がった・・・のだが・・・。

その「提出物」がなにを指しているのかが理解できず、次の登校日に、彼からの電話の用件を数人のクラスメイトに尋ね回った。

すると皆、「そんな電話は掛かってきていない」と、答えに困惑するのだった・・・。

電話の用件を問う氣持ちよりも、恐怖心の方が上回った私は、次の登校日も、そしてその次の登校日も、卒業するまでずっと、彼がいる職員室へ足を運ぼうとしなかった。

そうして、結局、彼からはもう、2度と電話が掛かってくることはなかった――。

私は、彼に執着している間、あのとき、あの、「彼がいる職員室へ足を運ぼうとしなかった自分」を、死ぬほど自責し続けた。

しかし。

ツインの真の概念を理解した今――。

そもそも、急遽大阪行きが決まったのは、彼からの電話を回避するためだったと、すなわち、彼と対峙することへのNOサインだったと、不本意ながらも理解している。


私たちはどうもがいても、相手と縁を紡ぐことができないのだ。

私たちはどうあがいても、相手と結ばれることはないのだ――。

つづく

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